「結愛へ 目黒区虐待死事件 母の獄中手記」を読んで再度、中途養育者支援を考える

多様化する家族に関る認知の問題

大変遅い更新で申し訳なく思いつつ、前回(2019年11月)に、「私が親になろうとしてごめんなさい~目黒区・結愛ちゃん虐待死事件における中途養育の苦悩を考える」という文章をアップした後、自分はこの事件を発端に中途養育者支援の仕組みを作り出していくために、どのような方法をとるべきなのか、暗中模索・・・というよりも、五里霧中に差し掛かっていました。

どこから何をすれば良いのか。

子ども食堂を開設しても当事者の子どもが来ないと困っている主催者が多いと聞いていますが、中途養育者にしても同じというか、困っている事を言う事が出来ない、仮に言ったとしても理解されず、そんな思いをするくらいなら相談などしなければ良かったと殻に篭る、というのがほぼ想定されている世の中。

では実際の支援側にいる立ち位置の方が先ず中途養育者問題をしっかり理解する事が先決。しかし、その支援側の人達に向けてのアピールをする事に対して、どこから何をすれば良いのか・・・

そうこうしている間に、このたび、上記事件の被害者である結愛ちゃんの母親、船戸優里被告が手記を発表したと聞きました。

正確にいえば、Facebook上で友人がシェアしているのを見つけたというのか正解です。

正直、加害者側や被害者側が発表する手記が内容的にどの程度のものなのか・・・という思いと、感情移入の方向性を見るのが怖いと思って些か購入を躊躇する部分がありました。

なんとなく、元少年Aの名で発行された絶歌のようなものではないかというイメージが浮かんでしまいました。(この本は未だに読んでいませんが)読後感が悪いものになるような気がしてしまったのです。

しかし、前回の、もう一人の加害者である雄大被告についての文章をアップし、その後に自分は地元でこの本の中で解説をされているルポライターの杉山春さんを招き、地元で講演会を行う機会がありました。(その際に優里被告との接見についてなど、様々な話を聞いていましたが、内容について公に出来ない部分もあったのでこのサイト上での紹介はしませんでした)

そんなご縁もあり、杉山春氏の解説が読めるのならと、とりあえず書籍を購入し、読んでみました。また、今回の事件について興味を持つ方なら、巻末資料の白川美也子医師の意見書を読むのも非常に価値があると思います。

実際に読んでみて

で、実際の手記本文を読み終わり、その読後感になります。

先ず、言える事は今の自分は怒りも後悔もない事。

そして「多くの人に手にとって読んで欲しい」と思っている事。

それは何故か?

内容についてあまりネタバレするのは良くないと思うので、詳細は→ 版元 小学館のページを参考にして頂くか、AMAZON等で購入をご検討頂ければと思いますが、自分がこの本を多くの人に読んで欲しいと思う理由の一つに、この本から感じる、皆さんの感想を聞きたいという事があります。

小学館の紹介ページの中で、編集者からのおすすめ情報として、

  • なぜ、夫の暴力を止めることができなかったのか。
  • なぜ、過酷な日課を娘に強いたのか。
  • なぜ、やせ衰えた娘を病院に連れて行かなかったのか。
  • なぜ、誰にも助けを求めなかったのか。

「その答えが本書にある」としています。確かにそうかもしれませんが、そうではないかもしれません。

これらについて、自分が書くよりは実際に本を読んでもらえば良いのであえて触れませんが、個人的に感じた、特記しておきたい部分がいくつかありますので、そのあたりに少し触れてみたいと思います。

※見直して、わりとネタバレしてる気がします・・・気をつけてお読みくださいm(__)m

文章力が高い?

全体的に、文章の組み立てが上手い、という妙な??印象があります。
おそらくとても几帳面で、真面目な印象が漂っています。真面目に自分を責め、真面目に思った事、感じた事を丁寧に書いている印象です。公判で咄嗟に間違えた事を言ってしまったのを「嘘をついてしまった」と悔やみ、「嘘つき罪で逮捕されたい」と書いています。どれだけ自分に正直なのでしょうか。

巻頭に大谷恭子弁護士が書いているように「夢と現実が交錯している」感、時系列的には、被告が逮捕されてから日記形式で書かれたものが先にあって、それに結愛ちゃんが生まれて~亡くなるまでの期間を振り返り、加筆したもののようで、後半部分と前半部分がかなり印象が異なります。(印象は人それぞれだとは思いますが)文章的には、最初の「プロローグ」など、装飾された文体に何か不自然な感じを受けました。抒情的な表現に溢れているというか、手記というよりも、小説のような。

おそらく、優里被告は拘留中にかなりの本を読んでいるらしく、その影響が手記の文章に表れているのではないかと自分は思います。

全ては自分が悪いと責め、死と生についての苦悩が全編に現れる文章から、(これもおそらく、人それぞれだと思いますが)私は何故か、若い頃に読んだシーシュポスの神話を連想してしまいました。

エピローグにおいて、シェークスピアの「ヴェニスの商人」から二本の矢のエピソードを読み、自らと向き合い、書き溜めていた手記を公開することへを決意したとあります。このような事件を二度と起こさないためには子どもの命を守る者、加害者親の支援者、DV被害の支援者、加害者自身も含めてみんなの協力が必要だと。その決意には感動を覚えます。

几帳面な傾向について

一方で、中学の頃「途中で話が変わる」「ちょっと変わってるね」と言われる、「コミュニケーション能力がないと感じていた」、「みんなの要求通りに表情、態度、口調を作るなんて自分には難しい」など・・・

本の中では全く触れられていませんが、どうでしょうか。ASD(自閉スペクトラム)傾向を感じてしまうのは、私だけでしょうか。このあたりの意見を発達支援に携わる人に訊いてみたいです。

調書に自分の性格を「短気」「まわりに同調しやすい」と書いてあるらしいのですが、この2つの性格が混在するのはなんとなく変な感じがするのではないかと思います。

短気については、学生の頃「真顔怖い」「怒ってるの?」と言われ、自分を短期だと思い込んでいたようです。これはとても真面目に人の意見を捉えるという、几帳面な傾向なのではないかと思います。

周りに同調しやすいについては、小学校や中学校時代は思ったことをズバズバ言って周りに合わすのは面倒くさいと思っていた一方、協調性を大事にしようとも思っていたそうで、最初の結婚相手に対してはほぼ相手のいいなりにお金を渡し、夜の仕事をしたというし、その彼と離婚して、そのお店で働く雄大被告と仲良くなったようです。これも一見すると、いい加減に感じるかもしれませんが、自分にはなんというか、非常に真面目に対人関係を考えている結果な気がします。もちろん、多くの人の価値観とは合致しないかもしれません。

ハグへの違和感

本文中にも書かれていて、杉山春氏も「解説」部分で取り上げていますが、優里被告は香川県にいた頃、2度目の一時保護の後、結愛ちゃんをハグ出来なくなってしまった事を書いています。医療センターの小児科の先生から毎日ハグするる約束をさせられ、それが苦しくて「ハグできないんです」というと「じゃあタッチでいいわ」と言われ、自分がハグ出来ない「冷たいお母さん」だと思われていると感じた事、相談しているつもりの事をさらりと交わされ、アドバイスしてほしい事、聞きたい事の本質が根本的にずれる事など、書かれています。白川医師も雄大被告からの虐待誘発を無意的に避けたと書いていますが、実はこれは私も似たような経験があります。多くの中途養育者はこの「定型的ハグ神話」に苦しんでいます。ASD傾向がある方はHUGが苦手な人は結構多くいます。(優里被告がそうだとは言いません)

「ハグをする事、出来なければタッチなどスキンシップをする事」と、どこかマニュアルに書かれているのではないかと勘ぐりたくなる程、専門家の中には「ハグ神話」が溢れているように思います。

なぜ、支援者はハグに拘るのでしょうか?

その他多くの支援者の過ち

2回目の一時保護の間、保護施設の職員から「普通は2カ月もすれば・・・」的なやりとりがあったようです。実際は4カ月間だったそうです。その4カ月の後、愛着は揺らぐことなく、永劫に続くものであるべき、と支援者達には信じられていたのでしょうか。

親子ならば当たり前?

一時保護中に、子どもは何を考えて過ごしていたのでしょう?

親は、どうでしょうか?

家庭環境修復は自己責任、と言われれば仕方がないのかもしれませんが、そもそも、それが出来ていれば保護されるような事態にはならないとは思わないのでしょうか。

この事件が元で今後、家庭支援施策が事実上の義務化となると思われますが(今までも義務化されていたのかもしれませんが)法律に一行追加されたとしても、鏡に書いた餅では何も変わらないでしょう。

警察官も、児童相談所の担当者も、市の女性相談の担当者も、DVの判断を誤っているようです。

優里被告はこれらの事を批判している訳ではありません。

また、ここに出てくる様々な人たち、支援者も、親族も、(実親である元夫の親族などは話の中に全く出てきませんが)著者は全てを悪く書いている訳ではありません。実直に、その時どう感じたのかを書き記しています。

誰が悪いのか

著者は、この事件で誰が悪いといえば、100%自分だと書いています。

しかし、実際には、結愛ちゃんが生きている間に関わることになる関係者全員が悪いと、この本を読んで思います。

自分はボブ・ディランの歌で”Who Killed Davey Moore?”という歌を連想しました。デビー・ムーアというボクサーが死んだことについて、「誰が殺したんだ?」「自分ではない」と、レフリー、観客、マネージャー、ギャンブラー、記者、対戦相手等がそれぞれの言い分を述べるという「答えのない」プロテスト・ソングですが、この事件の公判における証言の一つ一つ、救急隊、品川児相、香川の児相、医療センターの先生、検事、裁判官、裁判員。それぞれが「自分ではない」と言っている訳ではないにしても、それぞれの証人の弁が、著者にとっては一つ一つ傷つく様が「たんたんと」描かれています。

「たんたんと」これも、優里被告の様子を表した表現にあり、裁判なので、悪い材料を用意するので当たり前といえば当たり前なのですが、大勢の人間から責められるのは「自分が100%悪い」としても、辛いことと思います。

まとめ

弁護士やカウンセラーなど、逮捕されてからの支援者だけが、救いとなっていて、後押しがあって手記の発表に至るのだと思いますが、自分にとって良い事実も悪い事実も合わせて公表するという事は大変勇気のいる事だと思います。

ただ一つ言える事は、自分の立ち位置からしても、自分をさらけ出す事は「到底出来る事ではない」のです。家族の本質はアウトロー(outlaw=文字通り法の外)と自分はよく言うのですが、それは守る者があっての事であり、裏を返せば、守る者全てが清廉潔白とは限らない事を意味します。

著者の優里被告が今、守る者が何もないと思っているかもしれませんが、実際には家族としては長男がいますし、もう一人の加害者、雄大被告との心の決着の全てはまだついていないようですし、この本の反響についても現時点では全く判りません。

とはいえ、私はこの手記を発表した著者の勇気を称えたいと思います。

本当に、今後このような事件が起こらないようにするためには、悪者探しをするのではない、もっと根本的な研究がされなくてはいけない訳で、そのためには、加害当事者の研究は絶対に必要だと思います。

もちろん、もう一人の加害者である雄大被告の研究はもっと必要になります。彼も悪者のままでは根本の問題は解決しません。

とはいえ、先ずは「子どもの命を守る者、加害者の支援者、DV被害の支援者、加害者自身も含めて、みんなの協力が必要(エピローグより)。」と気づいた著者が、頑張っていけるような社会を作っていくことも、我々がやらなくてはいけない事なのだと考えます。

追記事項

※この本の印税は、児童虐待やDVの被害者支援に取り組んでいる団体に寄付する予定との事です。

※自分も淡々と書きましたが、読む際には涙腺が緩むことが多いと想定されますのでご注意ください。

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