2 アタッチメント理論とソーシャル・ネットワーク理論

04.中途養育の困難とは

カウンセリング・セラピー等の現場において「アタッチメント理論」を知らない専門家は殆どいないと思われます。

しかし・・・

その定義においては人により異なっているようにも思えます。

曖昧さから同じ「愛着」という言葉を使う上でバイアス(先入観・偏見)が生じていないでしょうか。

アタッチメント理論の良し悪しをここで論じるつもりはありませんが、仮に中途から養育を交替した者が、以前の愛着形成者に代わって、愛着を自分に向くよう頑張って努力したとしても、「子どもが新しい愛着形成者を歓迎するとは限らない」ことは見落とされがちではないでしょうか。

今回の研究においては、中途で養育者が交代した場合の「子ども自身の声」を集めることが出来ていないため、安易にアタッチメントに関する肯定的もしくは否定的な感情を判断することは出来ません。
しかし、愛着形成した養育者が養育役割を「継続しない」という事実を通じて「中途で」他の養育者が役割を交代したとすれば、その交替には「※納得のいく理由」が必要です。
そうでなければ、「納得のいかない交替劇」は、子どもにとってストレスとなる可能性は高くなるでしょう。

ただし、ソーシャル・ネットワーク理論の観点に立てば、養育者は交代するのではなく、別の養育者との関係性が「新たに生じる」のであって、「役割を代替する」ということにはならない訳です。
ソーシャル・ネットワーク理論からみれば中途で養育者が交代する(と愛着理論側から言われている)ことは決してマイナス要素ばかりとはいえないのです。
ボウルビィにおいても「母子関係がない場合の養育代替」であって「母親役割の代替」を論じている訳ではありません。
しかし社会的「母子関係」神話は根強く、家族の役割に関する認識の食い違いが中途養育の現場においても(特にステップファミリーにおいて)様々な摩擦を生じているといえるのではないでしょうか。
アタッチメント理論はわが国においては邦訳についてくる「愛」に影響を受けすぎているように見受けられますが、アタッチメントに関る注意喚起は日本に限ったことではないようです。

ルイスらによる「愛着からソーシャル・ネットワークへ―発達心理学の新展開 (2007)」の中で、メアリー・J・レヴィットは「最近の愛着研究者の議論の中で(a)愛着の発達の標準的な過程はいかなるものかについて殆ど関心が払われていないこと(Grossman et al, 1999; Levit,1991; Levit et al,1994; Main, 1999)、と(b)内的作業モデルの発達と社会-心理的発達の質に対して、複数の愛着(Multiple attachiments)とその他の親和関係がどのような役割を持つかについてきちんと検討してない」こと(Berlin & Cassidy, 1999 Howes, 1999; Levit et al, 1994; Lewis, 1997)を挙げ、さらに(a)愛着概念の定義が曖昧であること、(b)愛着理論がボウルビィ-エインズワースの伝説の中にとどまっていて、ソーシャル・ネットワークやソーシャル・サポートに関する膨大なデータから孤立していることを検証しています。
カーンとアントヌッチ(Kahn & Antonucci,1980)はコンボイ・モデルについての独創的な論文を発表し、ソーシャル・ネットワークの考え方に生涯発達の軸を取り入れることを提案しました。コンボイは、情動的サポート、自己肯定、直接的援助というやり方で、的確にサポートの交換を行うように機能しています。
安定した愛着概念にしたがって、コンボイのメンバー間の援助的な交渉は、個人が適応的に行動するための安全地帯を提供するものであるとも考えられています。
レヴィットは「レヴィン(Kurt Levin,1980-1947)派的に言えば、個人のコンボイとは、個人の人生において身近で重要であると知覚された関係であると定義される」といいます。さらに「誰がコンボイのメンバーになるかについて初めから予定されていることは一切なく、それぞれの役割や機能にしたがってネットワーク・メンバーになると概念化している」といっています。レヴィットの結論として、コンボイ・モデル研究からネットワーク上の親しさが児童期、青年期と時系列により異なってくる点、発達的に重要な大きなネットワークの中に愛着の対象を位置づける視点を持つこと、としていますが、それは逆に、それぞれの役割や機能が流動的であることを示唆しているといえでしょう。

つまり、役割の代替については、それを代替する親役割者(中途養育者)から見たコンボイ・モデルと、子どもから見たコンボイ・モデルを比較することで、「期待している位置のズレ」を見ることは可能であるということです。

先ず、この「ズレ」を認識することで、養育現場の課題に気づくことが大事だと思われます。
「※納得のいく理由」が判り難いような気がしたので追記します。この納得のいく理由とはあくまでも、「子どもが納得のいく理由」です。例えば、「お母さんが亡くなったので、代わりのお母さんが必要」と考えれば、それは納得のいく理由かもしれません。しかし、「お母さんは何処に行ったのか判らないけど、新しいお母さんという人が現れた」これは納得のいく理由とはいえないように思えます。それよりは「お父さんの愛人がお母さんを追い出して一緒に住みはじめた(お母さんが可哀想)」このほうがよっぽど納得がいきそうですね。この例はあくまでも一例ですが、納得がいかない事象はいつまでも片付けることが出来ず、心の中で散らかり続けるように思います。

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