アタッチメント理論と「愛着」という概念

02.Aさんという架空の事例を通じて

ボウルビィ自身はその後「アタッチメント理論」を提唱し、その理論は「内的作業モデル」という概念を生み、今日においても発達心理学者を中心に研究者に多大な影響を与え続けています。

ところで、「アタッチメント」は日本においては「愛着」と訳され、その概念にはいくつかの混乱をまねいている部分もあるように思われます。

近藤(2007)は「アタッチメント、愛着といっても、実は定義がいくつかあり、どの話をしているのかをよく注意しなくてはならない」と現代の「愛着」という日本語がもたらす「スキンシップ」のような印象を持つことに注意するべきとしています。

青木(里親と子ども Vol.2 (里親と子ども) 2007)によれば、医療現場においても米国精神医学会の診断基準(DSM-Ⅳ-TR)による反応性愛着障害(reactive attachiment disorder)が用いられているが、「この診断基準自体を用いた症例研究や実証的研究は必ずしも多くない」といっています。「そのため発症率をはじめとした疫学や予後、確立した治療法などについてのデータが未だに得られていない現状」がありますが、わが国においては「愛着」という概念は「母と子の絆」論として「アタッチメント」本来の意味とは別に一人歩きし、母子関係に強く依存したモデルとして定着している感があるのです。

子と母(あるいはそれに代わる養育者)のみの、単一の相互交渉理論はルイス・高橋ら(2007)の「愛着からソーシャル・ネットワークへ―発達心理学の新展開 」において批判さ れています。高橋によれば「内的作業モデルなど愛着理論の基本的な理論装置も、それぞれの研究者にそれぞれ便利なように使われている」としています。愛着理論 とソーシャルネットワーク理論は対立する理論であり、どちらも比較行動学的な観点から検証されうるのですが、両者共にそれが人体にどのような影響を与えうるかに ついて、研究が進んでいるとは言い難い現状があるようです。(高橋, 2007)


花子さんから見て実質的な母親の代替役割は義母が担っていました。また、時にはAさんの妻が担っていました。しかし、Aさんの妻や義母は花子さんの「母親役割」をしていたという意識はなかったようです。あくまでも義母は「おばあちゃん」であり、妻は「伯母さん」としての役割で養育に関わっていました。実母は「養育をしなかった」が「実在していた」から「母親役割を代替」する理由がなかったのです。当時のAさんの所属する家族モデルは、「連鎖・拡張するネットワーク型家族モデル(野沢, 2011)」に近いかもしれません。しかしこれを「愛着モデル」で説明すれば、Aさんの家族には、愛着形成者が「欠損」していると見なされるのではないでしょうか。

当時、義弟も、花子さんの実母も働いていました。

そのような状況下で、さらに義弟夫婦に赤ちゃん(太郎くん)が生まれました。

太郎くんが生まれても実母は養育を行うことが出来ず、太郎くんの養育も義母が中心になって行うこととなりました。(5,0)

「勿論。太郎の出産には妻も義母も反対していました。本来、親が養育するべきであると考えていましたし、義弟夫婦に養育能力がないことも、花子の件で判っていたからです。しかし「中絶」という選択を強要する権利は誰にもありません。こういう場合、家族でなんとかするという選択をとるのは仕方ないのではありませんか。」勿論、Aさん達「家族」はこの「代理養育」は一過性のものと考えていたようでした。

義弟夫婦の生活が「落ち着く頃」には「定型の家族モデル」同様に、子どもたちは実親の元で「核家族」として生活すると考えていたのです。Aさん夫妻は義母とも義弟夫婦ともいずれは別世帯で暮らすことになると考え、その時までの「繋ぎ養育」をしていたということになるのでしょう。その意味においては、Aさんの家族は児童養護施設の「養育における立ち位置」と程近いのではないでしょうか。

家族が家族構成員を支援するのは当たり前であるとはいえ、そこに充てられる労力は決して小さいものではなかったはずです。

Aさんは自らの立ち位置を「私設養護施設のようなものではないか」といいました。「もちろん、養護施設をよく知りませんから、あくまでもイメージの問題です」とAさんは付け加えました。

 

その後、義母と義弟夫婦が同居し、Aさん夫妻は義母と別居することとなった。Aさんは義母と世帯が別になりました。

妻は専業主婦となり、Aさんの扶養に入ります。(2,1)その後、Aさんと妻の間には実子が一人生まれます。(3,2)

ジェノグラム

しかしその後、もうひとつの世帯、義母と同居した義弟夫婦は、しばらくして諸般の理由から再度離婚することとなりました。

ここで子供2人の親権は義弟に移ったのですが、2人の子を中途より養育していたのは、実質的にはずっと義母であったといえるでしょう。

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