長崎・佐世保 高1女子殺害事件について

長崎・佐世保 高1女子殺害事件について 多様化する家族に関る認知の問題

大変久しぶりの記事になりますが、長崎・佐世保 高1女子殺害事件について、少し書いてみたいと思います。
先ず、被害にあわれた高校生のご冥福をお祈りするとともに、被害者と心が通われていた全ての方々に対し、心からお悔やみ申し上げたいと思います。

私自身、高校に通う娘がおりますので、被害者の年齢と性別の情報だけで胸が痛みますが、普段ブログの更新も殆どしていない自分が、この事件に関して何故、わざわざ時間を割いて書くのかといえば、このHPが「中途養育者サポートネット」であるからということに尽きますので、心情的なことはなるべく避けて書きたいと思います。私はこの事件に対して、不用意に感情移入するべきではないと考えています。

また、何かを批判したり、擁護したりしないよう、気をつけるつもりではありますが、私自身が今まで生きてきた中で選択してきた経験は、既定の概念として、少なからずとも公平さを欠いた、偏った意見となる可能性もあります。

なるべくフラットなテキストを心がけようと思っていますが、不快になるような文節がありましたら、申し訳ありません。
どうぞご容赦いただけますと幸いです。

・今回の事件が何故、マスコミによって大きく取り上げられているのかについて。

「普通ではない」からだと思います。
では、「普通」とはなんでしょう?

「普通・・・」人を殺しません。
つまり、人を殺すには納得できる理由が必要です。
しかし、その本当の理由なんて、誰にも理解出来ない。(理由があるのかもわからない)
これが先ず、ニュースとなる資格のようなものでしょうか。

今回の事件で判っている(一般的ではないと思われる)いくつかの事象を挙げてみましょう。

・加害者は優秀(スポーツ・勉強共に)
・父親をはじめ家族は地元で公に顔が知れている人達、かなり裕福
・最近、母が死亡、父が再婚している
・加害者は高校生なのにマンションで一人暮らし

インターネット等に挙がっている情報は他にもあります。
兄弟の情報などもありますが、事実関係は定かではありません。

多くの人は上記4つの情報プラスアルファから、犯行の動機を及び、今後の対処等を導き出そうと試みているのではないでしょうか。

それはそれで、間違っているかどうかは私にも解りませんが、これら一つ一つの事象をどのように認知しているかによって、人それぞれが、社会心理学でいうところの、「原因帰属の誤り」となって同一ではない認識の刻まれかたをするような気がします。

 

現代のメディアは、ネットに参画する一般市民も含まれていて、ここでマスコミが被害者の実名報道に対する批判以上に、恐ろしいまでの調査能力を持っている ようで、事実と思われる事象と、虚構と思われる噂話(釣り、なんていうみたいですね)を見事に選別して、加害者は(ほぼ)特定されていて、その家庭に関る プライバシーも既に白日の下に晒されているように思えます。

とはいえ、もちろん全ての情報ではありません。

一般的に、多くの人はそれら断片的な情報を組み合わせて、何故そのような事件が起きたのかを、なんとか納得しようと試みるように思います。(これは共感となります)

また、その事件を(自分の周囲に当てはまらない事象)として、蚊帳の外に持ち出すための様々な工夫もします。(これは反感です)

自己認知を安定的に構築するためには、殺人を完全なる共感で終わらせる訳にはいきませんから、何かしらの反感を見出さなくてはなりません。
その、自分にはないものを選んでいく過程が、調査という行為なのかもしれません。
いずれにしても、なんらかの「納得できる理由」を探すかのように、メディアは事件に関連した様々な事実関係を洗いだして検証していきます。それは結果的 に、視聴率(アクセス数)が稼げる行為として、一律で同じ話題を皆で追いかけていくといった社会特性となって現れるのでしょう。

もう一度、考えてみます。

・加害者が優秀なだけでは人を殺さない
・家族が有名人や、裕福なだけでは人を殺さない
・母が死亡、父が再婚しただけでは人を殺さない
・マンションで一人暮らしするだけでは人を殺さない

これら一つ一つの情報から原因を見出せなければ、いくつかの情報を組み合わせ、新しい認知を仕立てなくてはなりません。

(加害者はたぶん・・・)
・愛されていなかった
・孤独だった
・あるいは、イカレていた

このような予想を立てるのではないでしょうか。

しかし、当然のことながら、愛されなければ人を殺していい訳ではないですし、孤独な人が皆、殺人鬼な訳ではありません。(イカレているに関しては、定義が不能なため、割愛します・・・)

ここで、加害者はたぶん・・・
・理解を超えた経験の元に、逸脱した人(環境的・ニワトリ型)
・あるいは元々理解を超えた人(先天的・タマゴ型)
この2つに分類されます。

ようするに家庭の責任か、自らの障害か、あるいは両方か、といった判断が一般的にはされ、事態は収拾して終わるのではないでしょうか。

しかし、誤解を恐れず言い切ってしまえば、これは「自分はこの事件にどのような距離感で関るのか」を納得して、安心しているだけに過ぎないのではないでしょうか。

悪い言い方をお許しいただけるなら「自分にどれだけ関係ないか」ということです。

関係ないことで安心して忘れられる、ケースを事例として、ファイリングして終われるのです。
身近に置いてあれば、不安で夜も眠れないかもしれませんから、これらの心理的な論理の組み立ては一般的に、生きていく上で健全な気がします。
自らの理解(立ち位置)から見た遠近感に基いて、しろうと理論(ファーンハムで検索)を構築していく行為は、理解出来ない事実を検証していく行為よりも、安定しているものだと思います。

しかし、もうお気づきかと思いますが、これらの安心感を構築する過程において、「悪者作り」が行われているように思えます。

一つは、養育者が交代するような事象であって、
一つは、脳機能障害です。

今回の事件はどうしたら再発を防げるのかは、私には解りません。
個人的には、家族の社会的立ち位置と家庭内システムのズレが原因だと思いますが、これは裕福な家庭内において、隠蔽され続けたら手の施しようがないと思います。(少なくとも現代の日本社会においては)母の死や、直ぐの再婚はドラマチックかもしれませんが、それよりずっと以前より、家庭の病理は進行していたんじゃないでしょうか。

おそらく、加害者は今まで何度も社会的に警鐘というか、なんらかのシグナルを送ってきていたと思われます。
しかし、それを問題として受け止められなかった社会は、おそらく今回もスケープゴートとして、マイノリティの問題として処理することで、よく判らないが気をつける、そんな曖昧な収束をするような気がします。

その中において、中途養育の問題、あるいは発達しょうがいの問題が、「蚊帳の外の人々」として、意識的排除の対象とされるのかもしれません。

ただ、我々は蚊帳の中にいる人たちよりも、案外、自由なのだということは、憶えておいてもいいのかもしれません。
今回の事件で、加害者の父親の再婚相手が晒されてはいないと思いますし、加害者の精神鑑定などもまだのようですし、具体的な実害もありません。

中途からの養育に携わる身分から卑屈になったり、事実を隠蔽する必要は、全くないと思います。

長くなりましたが、私が書いておきたかったことは、 ↑↑ これだけです。

 

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