目黒区/結愛ちゃん虐待死事件~さいたま市/殺人事件まで~中途養育者に対する社会的バッシングについて

多様化する家族に関る認知の問題

2018年3月に東京都目黒区で起きた継父による虐待事件。

継父の船戸雄大被告と実母の優里被告の裁判が始まった事と合わせてさいたま市の継父による継子殺害事件が起きる事によって、マスコミはこぞって惨虐性の高い事件のスパイスとして「血の繋がらない子育て」をキーワードに使い、中途で養育者が交替せざるを得ない子育て環境にある養育者と子どもを社会的偏見に落とし込む事に貢献し続けています。

さいたま市の小4男子殺害事件でも書きましたが、ネットの書き込みは非当事者(中途養育者でない者)による中途養育当事者への誹謗・中傷で溢れています。

中途養育当事者やその家族からすれば、集団ヒステリーによる社会的バッシングを受けているかのように感じると思います。

中途養育者サポートネット管理者である自分は、今までもこれらのメディアで取り上げられる事件について、消極的なスタンスでいたのですが、今回に至っては、前回のさいたま市の事件にもう少し加えて、再度書こうと思い立ちました。

サイト自体を放置気味である点には大変恐縮でありますが、今回の社会的風評に対し、黙っている事自体が困窮する当事者を支援から遠ざける事に加担してしまうと思ったのです。

きっかけの一つには、今回複数のメディアより連絡を頂戴した事がありました。その問いに答えている際に、さいたま市の事件の時に伝えた事では伝えきれていなかったとも考えました。

その流れの中で、先ず最初に言っておかなくてはいけないと思うのが、自分は今回の事件の容疑者を擁護する立場ではないことです。

その上で、メディアに寄せられた多くのコメントにある、中途養育者に関わる偏見に対して、自分が理解している部分をコメントとして残す必要があると感じた、という事です。

ここから先は、おそらくこれらの事件を掲載する多くの関連記事とは内容の視点が異なる事と思いますが、気になる部分等あるようでしたら、下の方にありますFacebookコメント欄等でフィードバック頂ければ幸いです。

「本当の父親じゃないのに」と言われること

これは、血縁のない養育者では「よくあること」なのかどうかが、一般的に判らないように思います。

私の知っている限り、「本当の親じゃないくせに」と言われるのは、よくあるケースです。

これは中途養育者であれば、「本当の親じゃない」ことは単純に「事実」です。そこに「くせに」がつく。これは「実親ならば許すことでも実親でない奴が同じことをするのは許さない」といっているのと同じ、といえば、少し判りやすくなるでしょうか。

子どもからの「親じゃない」発言は、中途養育の時限爆弾だと思います。いつ言われるか判らない言葉であり、子ども側からすればダメ出しの切り札として取ってある最大級の「ボスキャラ」的な言葉ではないかと、個人的に感じています。

ちなみに、うちでは中途養育の始まりは小2の頃でしたが、当時は親じゃない前提であってもいわゆる「2分の1成人式」等の学校が用意するイベントに対し、甥は「作文でお父さんと書いていい?」などと言っていたのを覚えています。私も「いいよ」と答えていました。「親じゃない」切り札の発動は中学以降でからで、それ以降何度も発動されました。そして高校1年の冬に、自分はギブアップしました。つきつめていえば、親じゃない人間に養われる筋合いはない=自立しかないのですが、それは難しい。ではどうするか…自分の場合は元々養子縁組をしていた義母の元で生活をしてもらう事にしました。児童相談所で相談もした結果です。

ただ今回のさいたま市の事件で感じる事とすれば、同居から一年足らず、小学校3年という年齢の子が使うのは早いのかもしれない、とは思いました。
考えられる事として、子どもの知的水準(精神年齢)が高かった可能性と、容疑者の養育者としての意識が低すぎた?可能性は感じます。

それだけ子どもの側にストレスを溜め込む要因が高かったのか、容疑者の精神構造が幼稚だったのかはわからないですが。

いずれにしても、「本当の親でもないくせに」というのは子ども側からの挑発であって、これは良くある事です。この挑発に、殆どの中途養育者は耐え、養育を続けるのですが、中にはこの言葉で挫折し、養育を諦め再度離婚、あるいは措置解除など、養育者をまたしても交替せざるをえない事情に陥るケースも少なくないと思っています。

親としての自覚が足りない?

目黒の事件にしても、埼玉の事件にしても、実母も責められています。

「親としてどうか?」というスタンスによって、問題があったのではないか、という見方からくるのではないかと思います。

義父(継父)も、父親としての自覚が足りないのは当然あったでしょう。

ただここにある「親としての自覚」とは、実母はともかく、継父側には持ち合わせようがないものであることは一般的に気づかれないと思います。

親としての自覚とは、一体なんでしょう?

中途養育全般に言える事ですが、当事者は「覚悟」したつもりでも、思った覚悟では足りない状況に陥る事が多いのが現実ではないかとも思います。

「判っていて結婚したんでしょ?」というのも周囲の人が当事者に向けて発する「決まり文句」のように機能していますが、「自覚が足りない」というのも、先ず「本当の親のように振る舞う」前提があって、その自覚が足りないことを責められているのです。

本当の親とは一体何でしょう?保育者や教育者のようではいけないのでしょうか?そのあたりの認識は非常に曖昧だと思います。

そこをごちゃ混ぜにして「親じゃないから」という部分を関連付ける社会的認知に対して、当該事件の被告が自己防衛するため「親じゃないことを責められた」という事をキーワードとして使えそうです。

そういう意味では、容疑者が犯行を「自分が悪いだけではなくて社会にも責任がある」という考えをもつ事へ加担する結果となるかもしれません。

本来、虐待や殺人を起こす事と、「親の自覚」は別問題だと思います。

ただ、実は私自身も、目黒の継夫と同じとは言いませんが…子どもたちが家に来た当初、毎朝ラジオ体操をやらせていた事があります。自分には子どもたちより小さい娘(当時は年中組くらい)がいましたが、子どもたち2人は娘と比べて筋力がなく、姿勢が悪かったからです。子ども達は嘘も頻繁につくし、娘はいじめのターゲットになっていました。ラジオ体操や百マス計算をさせている自分が、嫌な奴に思えました。

白状すれば、そこには愛情はなかったと思います。

そういう部分で、自分は目黒の虐待親がダイエットと称して食事を与えなかった事に対し(もちろん共感はしませんが)自分にもある種の逸脱した過去を持つ身ではないかと感じるところから、無条件に責める事が難しいのです。

途中から親になる人が待ち受けている困難とは

途中から親になる人は大概「なんとかなる」と思って中途養育に関わり始めるように思います。

これを私は「向社会的活動」と捉えていますが、実際にはなんとかならず、再度の離婚や、親族間での養育交代、措置解除など、結果としての「養育失敗ケース」は少なくないと思っています。

子どもは「無垢」という思い込みが一般的にあると思いますが、実際の子ども一人一人は発達ステージモデルでは語れない個性を持っています。

実親との離別は子どもにとっては「トラウマ体験」です。

それを理解せず、躓く事なく、すくすく育つ子と同様に「なんとかなる」訳がないのですが、中途養育者は始めるのに当たって「社会的に良い事」を行うつもりであるため、何かあれば社会が助けてくれると淡い期待をしがちであるのも事実かと思います。

困難は現実とのギャップから生じます。

子どもが懐かない、社会的支援がない等は、「判っていた事のはず」なのですが、良い事を行うのだからといったある種の「楽観的な思い込み」が困難の元になっているのではないかと思います。

さらに、「親のように振る舞う」ことを養育される子ども側からすれば「本当の親じゃないくせに」なのです。子どもからすれば本当の親は実在しているのです。

代わられても(迷惑…は言い過ぎかもしれませんが)事実とは異なる事の押し付けとなるので、「本当の親になること」は、受け入れ難いことだという事実は、認識してもらえればと思います。

その困難に対する、社会的支援として必要なことはなにか

困難に対して「自分が蒔いた種」として、「支援の価値なし」と判断されているのが現在の社会状況ではないでしょうか。

これは社会的な「家庭は一律」という思い込みから来る合理的配慮のなさだと思います。

生活保護家庭が蔑まれるのと同様に、ステップファミリー家庭も経済的困窮とは関係なく、実親ではないというだけで、スティグマを抱えて生きていかなくてはなりません。

これは難しい課題ですが、社会は人種、宗教、性的嗜好等と同様に「自分とは立ち位置が違う」事柄に対して寛容でなければいけないと思います。

中途養育も実親規範が強い社会において、昔から蔑まれ続けてきた事を認識し、意識を変えていくべきです。

もう一つは、社会的リソースとしての「中途養育者教育」を実現すべきです。

実親規範でいうところの「親だったら当たり前」の事は、中途養育者にとっては当たり前ではありません。

そのギャップを埋めるための教育的指導を社会的支援として提供する事は、今回のような事件を予防するためには必要ではないでしょうか。

継父の事件は容疑者の資質の問題なのか

シンデレラの話から変わらぬ「継親に対するいじめ」あるいは中途養育者を蚊帳の外に置くことから来る安心感とでもいうか、マジョリティから見たマイノリティ的な、そういった発想は本当に変わらないものだと感じます。

福祉の世界で「普通は車椅子を使わなくても歩ける」といっているようなものだと思います。

仮に、容疑者が血のつながった家族だったら、これらの事件は起きなかったのかどうか。そのような仮定に基づいて犯行を考える事にどのような意味があるのでしょう。

そこに価値があるとすれば、血の繋がらない家族に対する支援の必要性を先ず認めることが必要ではないでしょうか。

何度も書きますが、容疑者の資質的要因であれ、そうでないにしても、血の繋がりと犯行は関係がありません。殆どの中途養育者は虐待も犯罪も犯しません。

でも、仮に容疑者の資質的要因で事件が起きたとしても、きっかけが血の繋がらない事であるとすれば、その部分に対す配慮を社会がしっかりと根付かせる努力をしないと「臭いものに蓋」をするだけではないでしょうか。

養育者が交替する件を「臭いもの」にするのをいい加減止めてもらいたい、血がつながらなければそれ相応の支援体制を考える世の中になってもらいたい、そう願います。

(個人的に)管理者が欲しかった制度や支援

このWebサイト内で何度か書いていますが、自分は離別したステップファミリーの子ども達を引き取り、代替養育を経験した親族です。

その立ち位置から、個人的には、親族里親という制度が実質的に機能していない事を挙げなくてはいけません。(里親会で何度か助言を頂きましたが、実際にそれと戦うだけの勇気が個人的になかったのですが・・・)
親族里親に関しては金銭的なものと考えるのが一般的かもしれませんが、私が当時欲しかったのは、「どうやったら自分の子育てが上手くいくのか」という事でした。

里親には研修の機会があると知り、その研修を受けさせてほしいと児相に言っても「すみません」としか言われませんでした。

何かないのか、と聞けばまた「すみません」と言われました。

私は自分のために、児童心理学や中途からの子育てに関わるための知見を学ぶために大学に入りなおし、様々な機関に自主的に関わりました。

中途養育者は皆、大学で学びなおす必要がある、とは思いません。

しかし、中途養育に特化した教育プログラムは実際に存在しないし、その提供の機会が公的にあれば、どれだけ良かったかと思います。

自分の経験からいえることは、中途養育者には教育の機会が必要なのです。

養育者が交替する事による、心にトラウマを抱えた子の養育は、通常の子育てマニュアルで対応出来ません。アタッチメントに関わる問題や、発達課題、二次障害など、専門の教育が必要であり、その応用は実親ケースとは異なるので、ワークショップは中途養育に特化する必要があると思います。

血縁のない子どもを養育する際の心構えとは

(ここは中途養育者側でも意見が分かれると思いますが)私は中途養育者が実親になろうと頑張るべきではないと思っています。

出自に関して実親を否定することは避けるべきです。

中途養育者は「子どもの権利条約」を理解するべきです。

前にも言いましたが、中途養育は実親に替わり養育に携わるといった向社会的活動であり、本来、誉められこそすれ蔑まれるものではありません。

逆にいえば、実子の子育てよりも大変な子育てに携わることを、(自分で選んで始めた事であり)社会の責任にするべきではないと思います。

里親は「好きで始めたんでしょう」、ステップファミリーは「わかってて結婚したんでしょう」と言われます。

親族は「好きではじめた」訳ではなく、自分の家族が問題を抱えているため止むを得ず関わっている、これは案外、非当事者にも理解されるのです(もちろん家系的マイナスイメージを伴いつつですが)。

里親やステップファミリーはなぜ、困窮した際に同情されないのかといえば、親族のようにマイナスイメージを伴っていないからかもしれません。

中途養育者は、中途養育者である時点で、スティグマ(社会的烙印)を持って生きなくてはいけないことを、避るべきではないのです。

でも社会は中途養育者を保護する仕組みを作るべきだと思います。何度も言いますが、中途養育は向社会的活動です。ひとり親支援としても、虐待防止としても人知れず機能している養育者交代問題、自分が好きで始めたんでしょうと見捨てられるのは、私は中途養育者が「月にのぼったうさぎ」と同じ扱いと思ってしまいます。

中途養育当事者団体として、我々が今、やるべきこととは

 

システムを変える時期だと思うのです。今がその時期ではないでしょうか。
私が今考えるのは、一つは社会が中途養育者の困難を軽減する「教育プログラム」を制定する事。

もう一つは、中途養育当事者による「メンター活動」の推進です。
中途養育は国内において課題が精査されていません。この状況は発達障がいの親支援と似ていると、私は考えています。以前里親メンターという仕組みがありましたが、発達障がいの親支援として全国的に展開している「ペアレントメンター」の仕組みを拡大して、そこに「中途養育者メンター」を内包していく事を提案します。

最後に 普通を目指すのをやめて、支援に関わるべき

あくまでも、自分の主観は今回の事件の容疑者を擁護するものではありません。
「本当の親じゃないと言われて」殺害したと言われては、人知れず困難を抱えて頑張っている中途養育者が迷惑です。

全ての中途養育者が(人知れず)頑張っているのです。

ただ、その頑張りは、頑張る事が難しい人を虐げる事に加担する可能性もあります。

頑張って困難から抜け出した人がいたとして、その人が自分だけ「普通の枠組み」に入ってしまったとします。自力で困難から抜け出すことが難しい人たちにとっては、必死で困難から抜け出した人が頑張った部分が「普通の人には出来る事」として社会的ハードルが上がってしまい、さらに頑張ることが期待され、とても苦しくなる可能性があるのです。

規定概念の中の「良い当事者」「悪い当事者」が生まれる原因でもあります。

私は、当事者はもう「普通を目指す」のを止めるべきだと思っています。

「普通」は幻想です。

(今までと比較して)生活が良くなったか、悪くなったかはあるでしょう。でもそこの何処にも「普通」はありません。

また(自分もそう考える事があるのであえて書きますが)一般的に考える失敗例。

例えば、再離婚も、措置解除も、ダメなものと決めつけないでください。

今困難な人にとって、また支援に携わる人にとっても、貴重なリソースになる実体験だという事を考えて欲しいです。

先ず、「自分には関係ない」を止めましょう。出来る事は色々あります。自分も中途養育問題をずっと放置してきましたが・・・それではいけないと、最近は思い始めています。

これを読んで少しでも共感いただけるなら、一緒に支援活動に関わってほしいです。

もし貴方がFacebookをやられているなら、→こちらから繋がってください。

秘密のグループもあります。

寄付という形でも良いと思います。仕組みを近いうちに作ろうと思います。

以上、まだまだ自分も活動が出来ていませんが、自分だけでは出来ない事を、意識のある人が先ず関わっていく、そんな状況を作っていきたいと思います。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

中途養育者サポートネット暫定的管理者
A-Step代表 町田 彰秀

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