川崎市登戸児童ら19人襲撃殺傷事件岩崎容疑者の家庭問題について

多様化する家族に関る認知の問題

川崎市登戸における連続襲撃殺傷事件の背景について、ワイドショーのニュース内容を見るにつれ、何も書かずにいるのは如何なものかという気持ちで、重い筆ならぬ、重いワードプレスのクラシックエディタを立ち上げ、結論を思いつきもしないままに書き連ねようと思った次第です。

先ず、このサイトの更新がほぼ2年半ぶりであることについて、自分自身も驚くと共に、その間中途養育問題に関心を持ち、ウエブサイトに辿り着いた方々には、更新出来ていなかった事をお詫び申し上げます。言い訳になりますが、一個人として、中途養育問題に関わっていく事に些か気持ちが折れていました。

2016年末にUPした「フューチャーセッション」の案内を除けば、前回の記事は「津久井やまゆり園の事件について」でした。元々事件を取り上げるためにこのサイトを立ち上げた訳でもないのに、このような形での更新しか出来ていないことについては、大変申し訳なく思います。

そのような状況で今回の事件を取り上げ、書かなくてはいけないような気がしたのは、この事件の容疑者の家族構成にあります。

その視点にのみ、書く意義を見出している訳であるから、この事件から多くの悲しみ、怒りを感じて当該記事に辿り着いた方は読まれるにあたり注意が必要かもしれません。

自分は今回の事件に関わるカリタス学園の子ども達や学校関係者、不幸にして亡くなった外交官の方と小学校6年生の女子に関しましては深くご冥福をお祈りし、関係の皆様にお悔やみ申し上げますが、その上で、この事件の容疑者である51歳の無職の男性について、もちろんこのような事件を起こして良いなんてことはあり得ないし、許される事ではないという前提で、単に憎しみを露わにし、怒り、極刑を望む等の感情に浸っていてはいけないと、思っています。

犯人を憎むだけでは足りないのです。

我々はこれらの事件をどうやって無くしていくのかを考えていかなくてはいけないのだと思うのです。

ただ、これは簡単な事ではないでしょう。何所をどうすれば、このような凄惨な事件が起こらないのかが判るのであれば、もっと早くに予防法が開発されているかもしれません。

この事件で判っているいくつかの事

先ず、この事件には判らない事が沢山あります。動機も判らなければ、容疑者が何を考えていたのかも判りません。ただいくつか判っている事もあります。

  • 当時容疑者が同居していたのは、80代の伯父と伯母で、容疑者の両親は離婚していて、容疑者の幼少期より、養育に関わっていなかったようである事。
  • 伯父、伯母には実子が2人いるようだが、同居していたのは甥にあたる容疑者だけであるような事。
  • 容疑者は50代にして就労していなかったようであり、80代の伯父、伯母が扶養していたようである事。
  • その扶養者である伯父伯母が訪問介護のお世話になっていたようである事。
  • それらの家庭問題の相談を行政は10数回受けていたようである事、など。

これらの要素で何か決定的に言える事があるとは思えませんが、おそらく典型的な家庭のイメージと離れている部分を感じられる人は多いと思います。

この事件で判らない事

  • 先ず実親は何故容疑者の養育に携わることがなかったのか。
  • 伯父伯母の子ども達、容疑者から見た従兄、従姉は何をしていたのか。
  • 親族はこの容疑者との関わりをどのようにしていたのか。
  • 行政は何もすることが出来なかったのか。

その他にも色々あるとは思いますが、上記の「何故」は、中途養育における「社会から見た何故」に似通った課題があると思われます。

この事件と中途養育者の関連

中途養育における「社会からみた何故」とは、先ずは「何故、実子でない子を養育するのか」ということになります。理由はいくつかあるでしょう。

  • 子どもが好きだから
  • 社会的にやるべき事と思って
  • 実子を授かる機会がなくて
  • 跡取りがいないので
  • 親族の問題で、止むを得ず

などが考えられます。

自分も含め、親族が実親に代わり養育を肩代わりする理由は「やむをえず」になる場合がほとんどでしょう。民法877条1項 で「直径血族及び兄弟姉妹は、互に扶助をする義務がある」としています。容疑者の同居者はおじ、おばであり、3親等親族となるため、実際には当然のように扶養義務を負うのではなく、家庭裁判所に申立をして家庭裁判所が「特別事情」があると認定して初めて義務が生じるものです。(民法752条)

岩崎容疑者の家庭事情は定かではありませんが、実親(父・母共)離婚したとはいえ生存しているのならば扶養義務は実親のどちらかになるのではないか、と考えるのが普通でしょう。つまり、ここが(何らかの形かは不明ですが)「普通」ではない事が判ります。

80-50問題

この事件の容疑者の家族は、現在話題になっている80-50問題に到達した中途養育者であることはほぼ確定していると考えられます。

8050問題とは、現代日本に発生している家族に関する問題であり、名付けたのは大阪府豊中市社会福祉協議会の勝部麗子氏であるとされていますが(→Wiki参照)ひきこもり等の家族問題の親子関係が既に20(子)50(親)ではなく、50(子)80(親)であるという実態がある、という説です。

これを執筆している自分自身、50代であり5080問題からすればまだ子ども側の世代であるといえます。しかし、養育者という立ち位置からすれば既に扶養者は成人しており、その中で進行していくであろう自身の衰えと既に社会的に養護権を失った子ども(社会的には大人ですが)との今後の展開など、生きていれば必ず訪れる年月であろうことは間違いない訳で、それらについて無関心でいることはあまりにも責任のない立ち位置になろうかと。もちろん積極的に考えるには至りませんが、気持ちの中の一つの気がかりであることは間違いありません。

この事件の教訓から何をすべきか

この事件においては当該容疑者が自死しており、何を考え反抗に及んだのかも判らず、この事件の記事の殆どが実際に判っている事を結び付けて様々な憶測が飛び交う事に貢献しているにすぎません。定かになっている事が少なすぎるため、仕方がないのかもしれませんが、岩崎隆一容疑者が「異常だった」で片づけていい問題ではないと思います。ゆるせないとか、怒りの感情を向ける気持ちが解らない訳ではないですが、もっと本質的な問題、自分が所属する家族が社会的に「普通」とされる状態から遊離してきた際に、どう舵取りをして(家族以外の)地域社会とかかわっていくか、そういった問題だと思うのです。

従兄弟がカリスタに通っていたというのだから、貧しい家系ではないのでしょう。また、従兄弟は既に独立して同居していないのにも関わらず、ひきこもり(と思われる)甥を扶養しつづけたおじ・おばの存在は「やむをえず」にしては長期に渡りすぎているとも思えますが、これは(経済的に)扶養することが可能であったから、という捉え方も出来るでしょう。

自分たちが面倒を見られなくなったら・・・これは障害を持つ子のいる親であれば、皆考えている共通項目です。しかし、障害受容出来ていなかったら、自立若しくは自立支援は先延ばしになります。今回のケースでは先延ばした年齢が50-80になったという事でしょう。

「家」という存在はブラックボックスに成り得ます。中途養育者は外部に繋がりにくいことは、このWebsiteでは何度かお伝えしている事です。それは社会的な「普通」という概念から来る負い目を、中途養育者が感じ、さらにそれらの問題を先送りするだけの経済力を持っているから起こる事だと思います。

経済的に破綻せよ、というつもりはありません。しかしそのゆとりを、もっと違う方向に使うべきではないかと思います。

一般論で言うのは良い事だとは思いませんが、中途養育当事者が、もっと自己開示すべきなのだと自分は考えます。

これは中途養育当事者に限りませんが、困窮を乗り越えるために頑張ったとして、仮にそれを乗り越えたとして、自己完結してしまえば、自分が築いた大変な思いは「頑張れば出来た事」になり、頑張っても乗り越えられない困窮者をさらに虐げる事に加担する事になるのです。あなたが頑張って出来た事を、いくら頑張っても出来ない人達に、そのノウハウを伝えるくらいの事は出来そうでなないでしょうか。

「通常の」育児は、伝えられていきます。

発達障がい児の親による支援も、遅ればせながら伝えられる仕組みが出来はじめてきました。(参照→ペアレントメンター制度

しかし、養育に中途から関わる、かなり大変な育児に関して、先人たちは何も伝えてこなかった。これにはいくつかの問題があって伝えることが簡単ではなかったためでもあります。

それは、実子ではない子を育てる「理由」が個々で違うからです。

また、「子育ての大変さ」が均一でもないです。

それらの事情から、大変さは「生活困窮レベル」になって初めて浮上してきます。

ここを少し「予防」という概念を取り入れる仕組みを、作っていくべきだと思うのです。

今回の事件と同様に「行き詰まる」家庭は増えていく事が予想されます。行き詰る前に、支援する。

どうやって?具体的な策が思いつく訳ではありませんが、いずれにしても、中途養育者が地域的に孤立しない仕組みを考えていく事。

これを先ず、ここまで読んでくださった方に、我々と一緒に、是非考えていって貰いたいのです。

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